cat on a train

目的はただ文章力をあげることだけ。そのために駄文を垂れ流す。

電車のなかの静寂

ぼくの勤務先は東京にあって、通勤と退勤に電車をつかっている。東京で働いている人ならわかると思うが、通勤時も退勤時も電車は混んでいる。時に「すし詰め」になるときもある。

 

ぼくはもともと田舎出身だ。車両は二両しかなかったり、乗務員は車掌しかいない「ワンマン電車」というのが走っていたりする。そんな田舎出身のぼくにとって東京で電車生活をしている人達の顔は、かなり疲れているように見えた。

 

そんな東京での電車生活をおくっていたある日のことである。

 

その日仕事を終えて、家に帰るためにいつもどおり電車に乗っていた。そのとき電車内で、赤ん坊が「ぴゃあ」っとしゃべった。

 

このとき、ぼくはものすごい違和感を感じた。

 

文章上で赤ん坊が「ぴゃあ」っとしゃべったと書けば、微笑ましいと感じる人が多いと思う。でもそのときの電車内の雰囲気は違った。(と僕は感じた。)

 

そのときの電車内は、赤ん坊の声が迷惑だという雰囲気に満ちているように感じられたのである。まわりから、赤ちゃんかわいいなあ、というような雰囲気を感じられなかった。満員電車だったからストレスたまってたんだろう、と考えた方もいると思うが、たしかに人はたくさん乗っていたが、満員というレベルではなかった。すしづめというものには程遠い状況だった。

 

そして、僕もそのとき、赤ん坊の声がすこし耳障りに感じたことを白状する。

 

あれ、何かおかしい…そのとき僕はものすごい違和感を感じた。

 

ベルリンで同じような光景があったのを覚えている。(僕は一年前にベルリンで生活していた。)

 

ベルリンでのある日のことだが、電車内で赤ん坊が乗っていた。でも周りの人たちは微笑ましい感じでその赤ん坊を見ていた。この周りの人は、赤の他人も含んでいる。ある日と書いたが、赤ん坊が保護者と電車に乗っているのは割と日常茶飯事なので別に一日限定ってわけじゃない。

 

都会は人間関係が希薄と言われることがある。けどぼくが赤ん坊を見たのは、ベルリンだ。ドイツの首都だ。だから都会だから人間関係が希薄というわけではないらしい。

  

そしてベルリンにいた時のぼくは、その赤ん坊を微笑ましいと感じた。迷惑だなあとは感じなかった。

 

ベルリンと東京で何が違ったのか。

 

たぶんあの電車内の独特の静寂さなんだろう、とぼくは考えている。

 

静かにする、というマナーが、各人に干渉してはいけないと雰囲気を作り出してしまい、赤ちゃんの声すら迷惑になる、という雰囲気を作り出してしまったのではないだろうか。

 

本当に電車内にあの静寂さは必要なんだろうか。ぼくが欲しいのは、騒がしくてもいいから、もっとアットホームな雰囲気の電車内なんだろうな、と感じた日だった。

職種をチェンジする時代

こんな記事があった。

 

diamond.jp

 

学生時代だけでなく就職してからも、新しいことをどんどん「独学」しなければ、これから先生き残れないらしい。

 

その意見にはぼくも賛成だ。

 

そして実際にぼくは独学をして職種チェンジをした例でもある。

 

ぼくの背景を少し話そう。

 

ぼくが持っている学位は工学部の電気電子工学科なのだが、その学位を持っている人の代表的な就職先はメーカーになる。

 

ここで問題なのはどのメーカーに就社するのかは選択できるのだけれども、そのメーカーで何の職種になるかを選択できることは少ないということだ。(といっても十年前の話だから今は知らない。)どの職種になるかは、入社後に人事部が決める。

 

ぼくは入社時、電気回路設計職を希望していたのだが、実際に配属されたのは生産技術職だった。メーカーで働いたことがある人ならわかると思うが、けっこうな畑違いである。(電気回路を設計することもあったのだがその割合はかなり小さい。)

 

そして今はWebアプリケーションエンジニアとして働いている。人生とはおもしろいものだ。最初の職種が生産技術だろうが電気回路設計だろうが、結果的にはどうでもよくなった。

 

話を少し戻そう。

 

独学が重要になる時代になる、とのことだが、ぼくはWebアプリケーションエンジニアとして雇ってもらうために、いろいろなことを独学した。英語、HTML、CSSJavascript、React、Redux等々。生産技術者として働いていたころにプログラムを書いたことはあったが、はっきりいってたいしたものなど書いていない。今Webアプリ開発で使用しているスキルの大半は独学によるものだ。

 

ぼくは少しかわっているので、自分がこれが正しいと思えば(その結果が成功するか失敗するかはさておき)割と迷わずそれに向かって突き進む性格だ。(今のタイプの)生産技術はこれから衰退し、Webアプリ開発は伸びると考え、独学し職種チェンジした。しかし、やはりそんなふうに動く人は少数派な気がする。

 

たぶんそろそろ、職種チェンジのための仕組みや職種チェンジというものの社会的認知が必要な時期に入っているんだと思う。それで成功した例が、アメリカのCoding Bootcamp。まあいろいろ問題はあるみたいだけど、職種をチェンジできる、というイメージを世間に広めた功績は大きいと思う。

 

日本でもたぶんCoding Bootcampはあるのだろうけど、なんか成功しているイメージがぼくにはない。ただ、コードをかける人はこれから先ますます重宝されると思うのと、アメリカではCoding Bootcampは成功したので、まずはプログラマに職種チェンジというのを何らかの方法で日本で流行らせてみるのが、職種チェンジというものを社会的に認知させるために有効だとぼくは考える。そして後々は、あらゆる職種にチェンジできるようになる、というのがいいのではないだろうか。

あついポケットティッシュがほしい

最近鼻をかむ機会がよくある

 

別にぼくは花粉症ではない。

 

年をとったからなのか、最近ご飯を食べるときに鼻水がよく出る。だからぼくはポケットティッシュをかならず携帯している。そうでないと、レストランとかに置いてある食後に口をふく紙(あれって正式名称ってなんていうんだろう)で拭くことになるんだが、あれは薄いので何枚も必要になってお店の人に申し訳ない。

 

で、ポケットティッシュの話。

 

日本のポケットティッシュペーパーは薄い。え、そんなこと気にしたことがない?そうでしょう、ぼくもドイツに行くまではそうだった。

 

日本のポケットティッシュペーパーはおそらく2枚重ねが基本だと思う。それに対しドイツのポケットティッシュペーパーは3-4枚重ねが基本。あとドイツのはなんか紙そのものがしっかりしてる感じだったと思う。

 

あとドイツのポケットティッシュは紙の取り出し方が日本のとは違う。どういう感じかというと、とりあえずビールさんが書かれた記事に載っている絵がわかりやすい。

 

www.huffingtonpost.jp

 

この取り出し方の方がティッシュを取り出しやすいと思う。

 

で何が言いたいかというと、ドイツ式は鼻をかむまでにかかる時間が短くていい。

 

日本式の場合、こうなる。

 

うお、鼻水が出てきた!やばい、鼻をかまなくては。ポケットティッシュを取り出してと。どっちが取り出し口だっけ。あ、こっちか。ん、やばい、鼻水がテーブルに落ちそうだ、急がなければ!げ!ティッシュを取り出すときにティッシュが破けた。これだからやわなティッシュは困る!慎重に2枚くらい取り出して、折りたたまれてるから伸ばして……ああ、鼻水落ちた。

 

いや、ならんだろ、というツッコミがあるかもしれないが、まあ、鼻をかむまでがめんどくさい。

 

これにたいしてドイツ式のは、ティッシュが取り出しやすい、シュッと取り出してもティッシュが頑丈だから破けない。鼻水の量が少なければ一枚でいける。つまり、速攻で鼻をかめる!

 

だから、ドイツ式のポケットティッシュを日本で販売したらけっこう需要があるんじゃないかなあ、と思った。でもドイツのポケットティッシュは結構ごわごわしてるから、肌が弱い人は荒れるかもしれない。そこは注意。というかドイツ式のは実は日本にもあって、ぼくが見つけれてないだけかもしれないけど。

 

結論だけど、いつもと違う環境で過ごしてみると、常識だと思っていたことが実は自分の知ってる世界だけでの常識だったと気づくことがあるよ!、というのをティッシュペーパーを例にして言いたかった。 

あなたが抱えている問題を解決したいなら色々な人と会おう

日本で生まれ、日本の学校に行き、日本の企業に就職した人の場合、たいていの場合、常に出会うのは同じ職場の同じ部署の人、あるいはよく関わる部署の人になると思う。ぼくもそうだったひとりだ。

 

そうだった、と書いたのは、割と最近ぼくは色々な人と会ったりするからだ。そして今のぼくはそれが結構楽しかったりする。

 

僕は大学卒業後初めて勤めた会社を約6年前に辞めている。その会社で勤めていたころに会っていた人は基本的にその会社に勤めていた人たちだ。年末年始に実家にかえったときに、同級生に会うことはあるが、会社と関係ない人と会うことはそれくらいだった。

 

ずっと同じメンバーとだけ関わっていると、たしかに楽しい。ここちよい。でも問題もある。それに気づいたのは、その会社を辞めたあとだった。

 

その気づいた問題は何だったかというと、ずっと同じ人としか関わっていないと、自然と自分の中での常識がその関わる人たちの中での常識に書きかえられる、ということである。こういうことをするときには、こうするのが当たり前だ、とその会社で働いていたころに思っていたことは、会社を辞めてから一ヶ月ほど後に、その常識は思い込みであったと実感することになった。一ヶ月経って会社との距離感がそれなりにできたことで、客観的に見れるようになったのだろう。

 

これは、別に会社を辞めなくても達成できた。単に自分の中でその会社が自分の世界の全てと錯覚していたことが問題だった。

 

だから、色々な人とあった方がいい、と今のぼくは思っている。そうすることによって、今のあなたの「世界」は実は非常にちっぽけな「村」だと気づくことができる。

 

たしかに、周りに自分の知らない人がたくさんいる場所に出向くのは、そんなに気持ちのいいものじゃあない。でも、これってけっこう「慣れ」の問題だったりして、最初の一回目は結構しんどいのだけれども、ずっとやってると慣れてくる。

 

自分がしている仕事がたとえば僕のようなプログラマなら、たとえばマーケティングをしている人と関わってみたり、料理人と関わってみたり。あるいは外国からの旅行客と話してみるのもいいと思う。まったく違う世界の人と少し深い話をしてみると、ああ、そういう考え方もあるんだなと、自分の視野が狭かったことにきづけるはずだ。

 

そしてそれにより今抱えている問題をもっと多角的にみれるようになり、斬新な解決策も浮かんでくる。ぼくもいろいろな人から話をきいて、問題の解決作のヒントをいつももらっている。

 

だから、色々な人と会ってみよう。けっこう楽しいよ。

ブログがうまくかけない

どういうことかというと、話すようにブログを書いてみるんだけれども、

 

すごく見づらいブログができあがるということである。

 

たぶんこれは、「話す」ときと「書く」ときで重要になる点が異なるからと考えている。

 

話すときは基本的に、前に話した内容をもう一度聞くことはできない。

 

ただし書くときは、書いた内容が上にのこっているため、

 

文章の流れがおかしい場合はよくわかる。

 

というか、この文章の流れもなんかおかしいな。

 

うまく直せないからとりあえずこのまま公開(笑)。

集中力がきれないようにいつもこころがけていること

たまに仕事で、集中したいのだけれどもどうしても集中できない、

ということがある。

 

集中力が切れてしまう理由に、やっていることが面白くない、

というのケースもよくあるのだが、そもそも「集中力」が残っていない、

ということも私にはよくある。

 

私は集中力は有限だと考えていて、実際私にたいしてはそれは正しい。

一日に使える集中力が決まっていて、それ以上集中力をつかうことができない。

コーヒーを飲んだりして強制的に集中力をあげることは可能だし、

過去に何度もそれを行ってきたが、必ず後日に「反動」がくる。

 

その反動はどういう状態になるかというと、体がすさまじく重くなる、

つまずきやすくなる、ケアレスミスがすさまじく増える、等。

 

だから私は集中力は有限と考え、一日の中でなにに集中力を使うか、

と考えるようにしている。

 

もしあなたが集中力がきれてこまっているのであれば、

どうやって集中力を維持するか、という考えかたの他に、

どうやって集中力を節約するか、という考えかたをしてみるのもいいのかもしれない。